新しく造られた者(7)

日立造船(株)と飯野産業(株)舞鶴造船所が1971年に合併し、日立造船(株)舞鶴工場として新発足して、その後も幾多の変遷を経て現在に至っているのですが、当時の日立造船(株)の初代副社長でもあり、戦後舞鶴引き上げ援護局の事務局長もされた、京都府議会議員もなさった、(I)氏との出逢いが私に大きく影響しました。
私の親父が舞鶴市役所(海軍施設課の配属からでしたので水道施設工事は専門で詳しかった)を定年退職した後に「会社経営」を親父にゆだねて京都府議から「舞鶴市長」に立候補するとの計画だった、しかし私は何も知りませんでした。大学で学ぶ以上の実践教育をするとの約束だったようです。
当時の衆議院議長前尾繁三郎)の青年部員としての研修会活動、(I)氏の府議選挙の手伝い、舞鶴海上自衛隊総監部、幹部の人事異動の時は(I)氏のところに必ず黒塗りの車両が横付けされ挨拶に来られました。数年はカバン持ち(今で言う秘書みたいなこと)をさせて頂いたのです。
さらに(I)氏の関係から日立造船(株)舞鶴工場の拡張整備にともなう機械設備工事は地元企業として、大手設備会社の下請で殆ど受注していました。機械設備工事の担当者として「無能鈍才」の私がどれだけ恵まれた環境で実践勉強できたか、今から思えば非常に感謝なことでした。