2009-07-01から1ヶ月間の記事一覧

感情の変化(4)

本体は決して変化するものではありませんが、見ている私達がいろいろな感情を持って見るからでしょうか。それとも、モナリザの表情が変わると言う噂で、私の脳裏が洗脳されているからだろうか。 私が暗い悲しいイメージで見ると、モナリザも悲しい微笑みに見…

感情の変化(3)

見学者はモナリザの前で少なくとも2分〜3分間は静かに立ちどまり見ておられ、モナリザの微笑みと言われ、顔の表情がいろいろと変化すると聞いていたので、私も実物の世界的名画モナリザの前に立ちました。 2分〜3分間、私は「心静かで無の心境」になって…

感情の変化(2)

1998年9月22日から30日の間だ、娘とイギリス(ローマ)フランス(パリ)旅行に行きました。パリに「ルーブル美術館」があります、広大な建築物ですから、ゆっくり見学しますと3日程は必要ですから、私達は世界的名画「モナリザ」が展示してある建物だけを見…

感情の変化(1)

1995年秋、金沢兼六公園のベンチで景色を眺めていた、1枚の葉が落ちてきた。 そよ風に、揺られて落ちる、落葉を、見てわ思う、冬の訪れ もうすぐ冬だなーと思う、金沢兼六公園でわ冬になると枝木に対して縄で補強工事がなされる。毎年同じ作業が行われてい…

「伝導映画会」の証し(6) 

私が何故このような「証し」をするかと言いますと、無能鈍才の私をクリスチャン経営者として今まで養って下さったのは、間違いなく神様の祝福でした。誰にだって神様の祝福が注がれていると言うことを知って頂きたいのです。 求めるか、求めないか、神の存在…

「伝導映画会」の証し(5) 

聖日礼拝(日曜10:15PM)、伝道集会(日曜7:30PM)、祈祷会(水曜7:30P)、早天祈祷会(火・金曜7:30PM)などの基本集会にはすべて参加しました。何かに背中を押されているように「神」の祝福を与えてほしいと祈りました。 積算依頼がきますと、その入手した「設…

「伝導映画会」の証し(4)  

ベンチャー起業した頃はフトンが辛うじて敷けたスペースで寝て、その横に製図台を設置して仕事をしていました。シャッターが降りると昼間でも真っ暗になる場所で2年近く生活しましたが将来の不安と心配から私を情緒不安定にしていきます。 その苦しさから解…

「伝導映画会」の証し(3)  

本田牧師が頭に手を添えて祈って下さいました「汝の罪・許されたり」。あすから君の新しい人生が始まる。当時の感激は、手の温もりと共に、いまも生きています。その時からすでに38年が過ぎました。 直接献身(神学校で学び牧師になる)よりも、信徒献身せ…

「伝導映画会」の証し(2)  

私が18歳の時でした、京都府西舞鶴市の「吐月旅館」で本田クルセードが開催されました。「誰でもキリストにある者は新しく創られた者である、古き者は過ぎ去った、見よ全てが新しく成ったのである」。とのメッセージを聞いたのが最初でした。 毎日の生活に…

「伝導映画会」の証し(1)  

水野源三さんは、幼い頃の病気が元で、寝たきりの人生を過ごした彼は、あいうえお表を前にしたお母さんや義理の妹さんに、まばたきで文字の場所を示し、数々の美しい詩を世に送り出しました。最後まで、言葉も話せず、起き上がることも出来なかった彼ですが…

聖書のプレゼント(5)

社長は、社員とその家族のために働きます。会社は人材育成して、その人に良い仕事をしてほしいと願います。良い仕事がないと良い人材が育ちません。良い仕事があると良い人材も育ちます。 プレゼントされた聖書で天国に召される日まで「礼拝」で使用すると思…

聖書のプレゼント(4)

私はその文章を読んだ時に心の中に「ドーン」と音を発するほどの衝撃を感じた。どうして衝撃を感じたのだろうかと不思議に思いました、素直に受け止め考えて見ました。結果的には、私もそのような生活をしたいと強く願うようになりました。 この文面を置き換…

聖書のプレゼント(3)

聖書を開いた最初のページに、手書きした文面があります。私はいつこれを書いたのか覚えていません。しかし京福設備工業(株)の経営が少し安定してきた頃ですから1988年頃だと思います。 「私は、私のために仕事をしていた時は。人は、私のために働かなかっ…

聖書のプレゼント(2)

その時から、2000年(満50歳)までプレゼントしてくれた聖書を愛用してきました。聖書を開きますと旧約聖書の創世記からはじまり恵みの宝庫です、メッセージを拝聴して恵まれ、感謝したことなどを聖書の中にたくさん走り書きしています 。私は婚約式でプレゼ…

聖書のプレゼント(1)

<婚約式の時に頂いた聖書> 1977年11月「愛は人の徳を高める」谷口旬(牧師)と聖書の表側にサインしてある。さらに1977年11月18日(贈)「神は喜んで施す人を愛して下さるのである」恵美子と聖書の裏側にサインしてあります。 婚約者である藤田恵美子さん…

ファックス受理(パート2)

私は1993年の頃から数年間はナショナル旅行友の会でずいぶん外国旅行をしました。京都の(N)建設グループ会長がその都度、帰国後にいろいろFAXで教えて下さった記録があります。 <人脈作りの3カ条> (1)小才は縁に出会って縁に気付かず。 (2)中…

ファックス受理(パート1)

私は1993年の頃から数年間はナショナル旅行友の会でずいぶん外国旅行をしました。京都の(N)建設グループ会長がその都度、帰国後にいろいろFAXで教えて下さった記録があります。 <成功する人間は5マメである> (1)、出マメであること。会社や家にジー…

私達の結婚までの経緯(6)

要するに私の要望を了解してくれたのです、私は嬉しく感謝しました。そうして熱心に祈りました。彼女は天の橋立聖会に宿泊し牧師のメッセージを聞いたりしてキリスト教を理解しようとしてくれました。 その後は教会で青年会メンバーとして賛美したり、CSで…

私達の結婚までの経緯(5)

私は真面目な交際を考えれば考える程に、イエスキリストを信じ洗礼を拒否する女性との交際・結婚は考えられませんでしたので、最初にはっきりと私の考え方を語りました。プロポーズの言葉は覚えていません、言わなかったと思います。 でも真剣で真面目に言っ…

私達の結婚までの経緯(4)

ガチガチにあがっている私を見て。松本社長が二人でコーヒーでも飲みに行くように言われたのです、私の運転で料亭をでてすぐ近くの交差点にさしかかりました。ボーとしている私は、信号のない交差点で車を停めて「信号待ち」をしていたのです。 横座席から「…

私達の結婚までの経緯(3)

お見合いの場所は国鉄東舞鶴駅の近くの料亭だった。(N)建築設計事務所の奥様が料亭のママさんだったので、今回の見合いは最初から内緒にはなりませんでした。(N)建築設計事務所の設備設計は私が協力していたので奥様も大変親しくしていたのです。小河…

私達の結婚までの経緯(2)

当時の私は、現場での仕事が忙しく時間的にも、精神的にもまったく余裕がありませんでした。時間がないと言って断っていたが松本重機(舞鶴市溝尻)さんの社長には仕事の関係から簡単に断われず、とりあえずお見合いをすることにしました。 後日聞きますと、…

私達の結婚までの経緯(1)

1976年のことでした。小浜市口田縄地区簡易水道事業の工事を地元業者として下請施工していましたが土木工事を当時の松本重機(舞鶴市溝尻)さんに協力願っていたのです。松本社長は私がテニスが大好きなのを知っておられました。 舞鶴市溝尻地区の自宅前…

みんなにありがとう(13)

熟児網膜症で視力を失った双子の兄弟の生い立ち。 これらのできごとは、私の親戚(身内)での話しです。しかし現在では、要介護者や傷害者の方々が私達の周囲にたくさんおられます。生活すること(生きる)に苦しみ、悲しみ、どうしてよいか解らない。 高齢…

みんなにありがとう(12)

熟児網膜症で視力を失った双子の兄弟の生い立ち。 両親は、大雪であっても土曜日になると午後から福井市内にある盲学校まで迎えに行かれました、日曜日の夕方にはお別れです。それはどんなに悲しんでも寂しがっても宿舎でお別れでした、お互い苦しいことであ…

みんなにありがとう(11)

熟児網膜症で視力を失った双子の兄弟の生い立ち。 ラジオから流れる賛美歌、教会からの牧師メツセ−ジなどが兄弟達の心のささえになっていたことを「証し」で本人達の口から聞いたとき、感謝の涙が出てきました。 「光り」を見出すことはできない私達ですが、…

みんなにありがとう(10)

熟児網膜症で視力を失った双子の兄弟の生い立ち。 幼稚園卒業後は、両親と離れて暮らす生活となりました。どんなに寂しい、悲しい思いをしたことだろうか、でも両親は心を鬼にしてでも教育を受けさせるべきだと思って、福井県立盲学校へ入学させました。 今…

みんなにありがとう(9)

未熟児網膜症で視力を失った双子の兄弟の生い立ち。 キリスト教系の幼稚園でしたので、食前感謝のお祈りや賛美歌なども学び、楽しく過ごしました。ある日のことでした、友達とサッカ−ボールで遊びました。すぐ近くから「ボ−ルいくよ」との声がしたが、いつま…

みんなにありがとう(8)

未熟児網膜症で視力を失った双子の兄弟の生い立ち。 すべての治療が手遅れでした、1973年に兄弟達は障害者手帳を持ったのです。点字を学ぶために4歳で福井県立盲学校幼稚部に入学したが家恋しさで1学期で中退しました。小浜にもどり市内にあるキリスト教系…

みんなにありがとう(7)

未熟児網膜症で視力を失った双子の兄弟の生い立ち。 結論的には「今後の相談を家族でなさった方が良いと思います」だった。本当にショックでした、家に帰つて先生の言葉を姉夫婦に伝えたかどうかすら覚えていません。どうしたらいいか、なぐさめようがない。…