過去の日記から(286)

数えてみよ主の恵み(6)
本田クルセードで語られたのは確か神は愛なりだったと思います、説教内容までは覚えていませんが、この時の感動は不思議でした。
夢遊病者の如く、本田牧師の招きで講壇の前まで行きました、本田弘慈牧師は福井県丸岡市出身です。
県立福井商業高校卒業で日本のビリーグラハムと呼ばれた大衆伝道者で神学博士です。
参加者が40数名は当時の本田クルセードとしてはメチャ小規模の伝道集会であったと思います。

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過去の日記から(285)

数えてみよ主の恵み(5)
さからい気分で興味が沸かなかったら、すぐに退席しようと考えていました、有賀喜一牧の「いさおなきわれ」を賛美されました。
今までに聞いた歌で最高の感動で興奮しました、無償だったペラペラの赤いビニール製のレコード盤でした。
「いさおなきわれ」をもらって帰りました、下宿で何度も何度も聞きました、新鮮で素晴らしい感激を覚え、心は満たされました。

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過去の日記から(284)

数えてみよ主の恵み(4)
40数名の集会でしたが、私の人生観が一変してしまいました、私は、新しい人生があるのならキリストを信じたいと思いました。
① 聖書の御言葉です
だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である古いものは過ぎ去った、見よすべてが新しくなったのである(第2コリント5 節)。
② 賛美歌です
いさおなきわれを、血をもてあがない、イエス招きたもう、みもとにわれ行く。 
この2項目は当時の私の心に大きな衝撃を与え、人生観を変えましたました。

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過去の日記から(283)

数えてみよ主の恵み(3)
舞鶴の市営テニス場でボールが見えなくなるまで練習をして帰路につきました、京都バスで通常は終点の西舞鶴駅で降りるのですが、その日に限って手前の「吐月旅館前」で下車しました。
友達と一緒でした下車したその前に、「本田クルセード」の集会案内が見えました、当時勤務していた、設備会社の会計さんからその集会案内のトラクトをもらっていました。
そのことが脳裏にあり、友達と時間稼ぎのつもりで参加しました。
 
 

過去の日記から(282)

数えてみよ主の恵み(2)
1968年(昭和43年)のことでした、テニスで勝利することが唯一の楽しみで生き甲斐となっていました、テニスで勝利し目的をはたしても、私はむなしさから逃れることはできませんでした。
ボールが見えなくなったらテニス友達も帰宅します、でも私には下宿しかありません、下宿に帰るのが辛くなってきていました。
しかし飲む(アルコール)は弱くすぐに駄目になりますし、お金もありませんでしたから、下宿で閉じこもり悩んでいました。
こんな人生でよいのか、このままでは駄目だと思うでもどうすればよいのか解りませんでした、そのような生活をしていた20歳の時でしたが、私は「本田クルセード」に導かれたのです。

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過去の日記から(281)

数えてみよ主の恵み(1)
1968年(昭和43年)のことでした、今は亡き親父(舞鶴市職員)の関係で(無理矢理)京都府舞鶴市の設備会社に就職しました、希望しての就職ではないので、何をしてもむなしく感じていました。
毎朝8時00分に出社して事務所で好きでもない仕事をし、5時00分を待って大好きな軟式テニスに没頭してボールが見えなくなるまで練習をし、あとは下宿で寝るために帰ると言う生活でした。
当時舞鶴保安学校の学生で高校総体ベスト4の実績と、高校総体3回戦まで勝利の実績を持っていた私の二人が一般の部でタッグを組んで大会に参加していました。

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過去の日記から(280)

事業継続断念の経緯、(最終)
起業するよりも、事業停止がどれほど難しいことであるかを知らされ、苦しくて悩みました。精神的にも非常に厳しい状況に追い込まれていきました、事業継承と健康問題で私個人が神様の前に冷静に判断できるか否かでした。
しかし神様は、御言葉を与え励ましてくださいました、新しい人生の選択をするようにと、決断させてくださいました、ハレルヤ。

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