産業独立の原点

1973年6月15日(昭和48年)私は舞鶴国立病院で入院中だった、当時はクリスチャン起業するか直接献身するか、決断ができず深刻に悩んでいました。
ある姉妹が聖書「詩篇46篇1節」の御言葉を持って見舞いにきて下さいました。当時の私達青年会のメンバーは「主はわれらの避け所また力である」、とマイクで毎週伝道集会の案内に用いていたので、ありがとう御座いますと儀礼的に済ませていました。 
夜、病院のベッドカーテンを締めて個室となりました。しかし午前中プレゼントされた「詩篇46篇1節」の御言葉を読むように導かれました、さらにマタイ伝6章25節に導かれ、教会には信徒献身者が必要だクリスチャン起業して「宣教の業に寄与すべし」との御声に従い産業独立したのです。
この世のいかなる権力者であっても、どんなにお金持ちであっても、裕福な人であっても、わたしたちの罪を帳消ししてやることはできません。
罪の許しはお金で買うことはできません、この世のすべての富を積んでも、この世のすべての富を積んでも、たましいはあまりにも高価でだだ一人の永遠の命も買うことはできません、また、地獄からだれ一人も救出できません。
しかし神にはそれができるのです。