新しく造られた者(10)

親父は天下りしないで、一足先に高浜で「若丹設備工業所」を設立して、職人数名とで手間請負をしていました。私が担当している現場にも「若丹設備工業所」が手間請負で施工し始めましたが、それでも私はまだ決断ができずに悩んでいました。
関西電力大飯発電所建設が始まった当初の頃のことが、私の脳裏に鮮明に浮かびます。未だ青戸大橋が完成していない頃です、巨大な「イカダ」に作業車と共に資材を積み込んで朝早く出発して、仮設給排水設備工事を手間請負していた時期もありました。でも決断できず悩んでいました。
当時は仕事量は豊富で人手が足らずに困っていた時代でしたから、真面目に働けば生活だけなら何とかなった時代です。無能鈍才の私は若干23歳ですから決断できなくても許されたのかもしれませんが、明確に決断する時が与えられました。
それは1973年6月15日の夜のことでした。私は「尿導管結石」で国立舞鶴病院に緊急入院した時のことであります。